この子の未来にただラブソングを

むらたかもめの子育てブログ

祖母が死んだ

祖母が亡くなった。老衰だった。入所していた介護老人ホームにある看取りの部屋で亡くなった。91歳の大往生だった。大きく息を吸い込んだ後、そのまま呼吸が止まったらしい。穏やかな最後だったという。

 

数年前から父に「いつどうなってもおかしくはない」と言われていたし、先月には「もうそろそろだと思う」と言われていた。 もちろん寂しさや悲しさはあるけれど、覚悟はできていた。だから祖母の最後と同じように、自分の心も穏やかではある。

 

祖母のことを思い出そうとすると、祖父のことも一緒に思い出す。「おばあちゃんはおじいちゃんのことが大好きなんだな」と思う出来事がいくつもあったから。

 

戦前生まれとしては珍しく、祖父と祖母はお見合い結婚ではなく恋愛結婚だったらしい。生前の祖母が照れくさそうに話していたのを覚えている。それも祖母から祖父への深い愛を感じた理由のひとつだ。

 

祖父は2005年8月15日に亡くなった。「終戦記念日で覚えやすいね」と親族が言っていた。祖母は葬儀や告別式に集まった親族に、着丈な振る舞いで対応していた。祖父が生きていた頃と変わらない姿や立ち振る舞いを見て、祖母は強い人なんだろうなと思った。

 

でも、そんなことはなかった。強い人ではなくて、優しい人だった。優しいから心配かけまいと頑張っていたのかもしれない。

 

祖父が亡くなり数日経ち、少しだけ落ち着いた頃。父と祖母が家で話をしていた時、祖母が突然その場で泣き崩れてしまった。会話ができないほどに号泣していた。そんな姿は今まで見たことがなかった。自分が見た最初で最後の祖母が泣き崩れる姿が、この時だった。

 

祖父が亡くなって数年経ち、家に物が溢れているから片付けようという話になった。だが「お父さん(祖父)のものだから」と祖父の残した私物の処分を躊躇っていた。父が「老人の一人暮らしは心配だから一緒に住んでもいいんだよ」と言っても「お父さんの荷物があるから」と断っていた。父が「じいさんが死んでから何年経ってるんだよ(笑)」と言っても、聞く耳を持たない。祖母は祖父の私物が残された部屋を、何年もまともに使っていなかったのに綺麗に掃除していた。それはとてつもなく深い、祖母から祖父への愛だったのだと思う。

 

それから数年後、孫である自分が就職したぐらいの頃から、祖母は少しだけ変わった。久々に地元に帰り祖母に会っても、孫の名前を思い出せなくなっていた。弟の名前と間違えたりもしていた。

 

最初は冗談なのかとも思ったけれど、祖母は人を不快にさせる冗談は言わない人だ。しばらく顔を見ないうちに孫の顔を思い出すことも困難になってしまったようだ。父からは「おばあちゃんは認知症が始まったかもしれない」と伝えられた。

 

その後も何度か会った。会う都度に祖母の認知症は進んでいるように感じた。物事の正常な判断が難しくなっているように見えた。

 

でも、偶然自分が祖母の家に父と母と一緒に行った時に、1度だけかつての祖母と同じ表情と口調で「この家を売って、お父さんの荷物も片付けて、一緒に住んでもいいよ」と言った。父も驚いて「本当にいいの?」と聞いてしまうほどに突然だった。全く認知症の症状を感じさせない姿だった。

 

これが自分が祖母とまともに会話した最後の日だった。もしかしたら祖母にとって、人生における最後の大きな決断だったのかもしれない。

 

やはり祖母は優しいなと思う。優しいからこそ、住み慣れた家を手放し、祖父との思い出の詰まった場所を離れる決断を、まだギリギリ正常な判断ができるタイミングがある頃にしたのだと思う。家族に心配をかけさせないために。

 

父と母は祖母と暮らし始めた。それでも認知症の症状は進んでいった。久々に自分が実家に帰った時も、やはり会話は成立しなかった。こちらが誰なのかも理解していないようだったし、自身の息子である父のことさえも理解しているのか怪しい感じだ。白髪や皺も増えて、身体も細くなってしまっていた。

 

それからしばらくして、祖母は介護老人ホームに入所した。それ以降、自分は祖母と会わなかった。会っても孫の顔も存在も忘れているようだったから、会っても意味がないと思った。

 

会わないまま祖母は死んでしまった。また会っておけば良かったなと、今更になって思う。祖母は自分のことを忘れてしまっても、自分は祖母のことを覚えているのだから。

 

葬儀会場で老人ホームへ入所した後の、施設の方が撮ってくれた祖母の写真を見た。どれも笑顔の写真だった。「子どもに戻ったみたいな、少女みたいな顔だね」と従姉妹が言っていた。たしかにとても幸せそうで、子どものように無邪気な表情をしている。

 

祖母にとっては介護老人ホームに入ることが、ベストな選択だったのだと思う。介護のプロがプロとして接してくれることで、祖母の心は少しだけ楽になったのだろう。認知症が進んでいたとしても、心までもおかしくなってしまったわけではない。家族に面倒を見させることに、申し訳なさを感じていたかもしれない。祖母は優しい人だから。

 

老人ホームへの入所後、祖母の白髪はなぜか黒髪になった。施設の人も「不思議だね」と言っていたらしい。なんなら祖母にとっての息子である自分の父よりも、髪の毛が黒いぐらいだ。老人ホームへ入所したことで、様々なストレスから解放されて、素敵な余生を過ごせたのだろうか。

 

一度ぐらいは祖母にとっての曾孫である自分の息子を、息子にとってのひいおばあちゃんである祖母に会わせてあげるべきだった。誰の子どもかは理解できなかったかもしれないけれど、子どものような笑顔で、曾孫と友達のように接してくれたかもしれない。

 

父は葬儀の参列者への挨拶で、涙声になりながら「施設に行ってから生き生きとした表情になりました。最後まで幸せな人生だったと思います」と話していた。

 

父が泣く姿を見たのはいつぶりだろうか。おそらく祖父が亡くなる直前以来だ。自分が祖父の病室で泣いてしまった時、わざわざ病院の外へ連れ出し「じいさんの前で泣いたらびっくりするから、頑張って我慢しろ。俺もじいさんが家に帰りたいって言った時は泣きそうになったけれど、それでも我慢しろ」と病院の駐車場で涙声の父に諭された時以来だ。よく思い返すと自分が父の涙を見たのは、その時と今回の2回だけだ。

 

祖母は広島平和記念日である8月6日に亡くなった。 祖父は8月15日の終戦記念日に亡くなったので、夫婦揃って戦争を思い起こさせる日に亡くなった。葬儀に来ていた祖母の弟が「覚えやすい日付だな」と、しみじみと言っていた。

 

そういえば自分が小学校低学年の頃、戦争体験者に戦時中の話を聞いてレポートにまとめる宿題が出された。祖父母は戦争体験者なので話を聞こうとしたのだが、祖母は「忘れた」と言って教えてくれなかった。代わりに祖母が子育てをしていた頃の話や、祖父のおもしろエピソードを長々と聞かされた。宿題の提出に困った。

 

でも本当は戦争のことを覚えていたのだと思う。祖母の弟は「戦争で色々と見てきたから、大変なことも沢山あった」と、亡くなった祖母の顔を見ながら言っていた。祖母は終戦時に12歳だったから、覚えていないはずがない。体験者が語ることを嫌がるほどに、戦争は恐ろしいものだったのだろう。

 

時が経ち日本に住む人で戦争を経験した人は少なくなってしまった。あと10年ほど経てば、日本での戦争体験を語れる者はいなくなってしまうだろう。戦争を知らない世代が戦争について考える機会は、これからますます減ってしまうはすだ。

 

でも自分は祖父と祖母の命日になる都度、祖父と祖母に思いを馳せるだけでなく、戦争について考えると思う。自分の息子にも祖父と祖母と戦争について、毎年8月には伝えるようになるかもしれない。

 

日本から遠くはない距離の国で、今でも戦争は行われている。どれだけ世界中で平和を願う人がいたとしても、戦争はなぜか無くならない。

 

天国は戦争は存在しないのだろうか。きっと存在しないと思う。天国なのだから。

 

おばあちゃん、戦争のない世界で、どうかおじいちゃんとお幸せに。